一般社団法人 日本アクアサイズ協会

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活動紹介

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活動紹介

2022/11/24

館山研修会

午前の部、野村武男(筑波大学名誉教授・協会顧問)によるロコモティブシンドロームについての講義・続いて深山ゆかり(副会長・認定講師)によるロコモチェックと陸上でもできる運動。午後の部はプールに入っての水中運動でロコモを予防・ナチュラルスイミング(高野恒久会長・認定講師)遠く富山県から参加された方は前日に現地に入り、レンタサイクルで市内を観光、テレビで見たアジフライを堪能されたとか…。研修は勿論ですが地方開催の研修にも旅行気分でぜひご参加ください。

2022/11/10

大阪研修会

社会福祉法人ラポール会様の社員対象研修会を行いました。ラポール会は大阪を中心に介護施設を経営して、そちらの副理事長様や職員の数名の方が協会の水中運動指導士でしたので、各事業所にプログラムを立て指導していたそうです。施設が増えるに従い、管理者もプール指導担当者も水についての知識や水中運動そのものを知らない職員が増えた事もあり研修会の依頼がありました。管理者・指導員・介護職の皆さんが各事業所からお集まりいただき、介護士が実際に指導に当たる際の注意点・全くプールに入ったことのない管理者に水中運動の効果を体感していただく・作業療法士が作成した筋力強化の方法の修正(筋肉の位置や流れの方向の確認等)また高齢者の体にとってどこの運動が必要か、筋トレかストレッチかの見極め等々を行いました。

リモートによる事前研修を行い実技は対面で行いました(古関美保子認定講師)

2022/05/17

7月リモート養成講習会

7月のリモートの日程が決まりました.スケジュールより詳細をご覧ください。

コロナ感染予防の為、職場から遠出や集会の参加を控えるように言われている方や、遠方で交通費や宿泊費がかかるからと受講をあきらめていた方、リモートで実技がわかるかしらと心配な方、たくさんの動画や実際にその場で動いていただいたり、次の講習迄にご自分の利用しているプールで復習・確認しながら進められます。

ZoomをつなげるWi-Fi環境が整っていればスマートフォン、タブレット、パソコンでご参加ください。ご希望の方は接続テストもご相談ください。

2022/04/28

参加者募集中!!現場の声を活かす!「セルフケア」股関節編オンライン勉強会

新企画! ~オンライン勉強会~(全3回)  【セルフケア・膝関節】

2週間に1回、興味のある人たちが集まって、協会のリーダーと一緒に、自主的な勉強会をしませんか?主役はあなたです!疑問を持ち寄り、みんなで解決策を考える、そんな

『大人のための塾』を始めます!全3回出席者は更新対象になります。

5/11 5/28 6/8 隔週水曜日 19:30~約2時間 リモート(Zoom)

 参加費 3回分9.000円  単発参加1回4.000円 申込者2名以上で実施します

✿✿参加希望➡ info@j-aquacise.com へメール 4/28迄✿✿

 

シール シール

2022/03/22

3月のオンラインサロンは体をマッピングしました。

指導者として知っておきたい筋肉や骨・関節の場所を確認、その働きは?それをどんな方法で参加者の皆様に伝えていますか?

今回は例としてハラミ?ヒレ?カルビ?(笑)楽しくこの辺の筋肉を意識して動こうとか・ここが痛い時はこの辺をほぐしてあげたり・鍛えたり等々。

意識して行う事で効果が上がります。陸と水中の動きについても確認しました。

2022/03/06

あっという間に3月ですね~!

1月のサロン「新規に教室を開催した時の様々な対処法について」実際の現場の体験やデータをもとに。2月の水中運動「対象者に合わせた動きの選び方」の研修会、2月のサロンは「コロナ禍、運動の注意点、マスク着用による運動と体への影響」 と、まだまだコロナ感染症拡大防止の為リモートが続いています。3月に入って、またまん延防止対策が延長されてしまいましたが、今年こそ対面での養成講習会【3月25~27日】を実施したいと思います。更新研修会(流機機気を使っての水中運動)(ミュージックエクササイズ)も併せて開催。

2022/01/06

謹賀新年

明けましておめでとうございます。

昨年末には終息に向かうと思われたコロナ感染症がオミクロン株となり又猛威を振るい始めています。協会も手探りながらリモートや対面での研修や養成講習会をはじめオンラインサロン等のミニ研修を提供してきました。今年も引き続き対面とリモートを活用して皆様に様々な情報等を提供していきたいと思います。

今年度残り3月までのリモート研修・対面研修や養成講習会の詳細についてはHP・Fbにてご確認ください。今年もよろしくお願いします。

2021/09/11

非常事態宣言延長

Swim Partner  第21号 (発行:2021.9.7)によると全国のクラブでコロナ陽性者が多く発生しているようだ。「調査で分かったクラブの感染者情報を並べると…。」と全国の情報が載っているがいずれもプール施設内での感染というより、会員が家族からの濃厚接触者であったり、スタッフが施設外で友人との外食等での感染が見られるようだ。「8月からどのクラブでもこうした事態になっていたのではないだろうか。スタッフの感染が多い! スタッフの仕事時間以外の過ごし方に注意すれば、少しは減るのかも…。そんな中、KL春日井スイミングスクール(愛知県)は「緊急事態宣言期間中は2週間に一度、出勤時に全員抗原検査を実施し、「陰性」を確認してから勤務しております」と告知していた。見習う必要がありそうだ。」「コロナ感染の第5波で緊急事態宣言が出ているのは21都道府県。その期限は9月12日までだが、一部の延長(30日まで延長)が論議されている。21都道府県で休業をしているクラブがあるのかを調べたところ、9施設を確認!」

改めて皆で感染症予防を徹底していきましょう。

 

2021/07/29

オリンピック

大橋悠依さん200m・400m個人メドレー金メダル2冠おめでとう!オリンピック水泳で前畑秀子さんという選手がいた事を若い人は知らないかもしれないけど今月の【Swim Partner 】 第20号2021.7.26 に載っていたので読んでみてください。(中略)
前畑秀子さんに関する物語り。ご本人が金メダルを獲るまで、どんなトレーニングをやったのかを自ら書き、雑誌に載せたものです。昭和42年の「水泳競技マガジン3月号」で2ページにわたって書かれています。読む時間にすれば僅か5~6分もあればよいでしょう。若いスタッフに「前畑秀子」を理解させるために、これほど簡潔にまとめたストーリーは他に思い浮かびませんので、敢えて再録という方法でその原稿を紹介します。読み終わると「凄い人!」と思わず唸ってしまうはず。それにしても凄い人! ご覧ください。(鶴谷道広氏)
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私はこうやった 肝心な精神力と練習法 兵頭秀子
 私は小さい頃から、水に入って遊ぶのが大好きだった。美しい川が家のすぐ下を流れていたからかもしれない。「秀子がいなくなったよ」そう言いながら母が私をさがし廻るところは、たいてい川辺であり、川でママごと遊びをしていたとよくいわれた。
 夏ともなれば、どこの子供さんでもやっぱり水に入ることが好きだと思うが、私は特に好きで、水の中に入っていると、ごはんを食べるのも忘れるくらいであった。これには母も大変困ったようだった。「いやだいやだ、ご飯いらない。ここがいいの」これが私の口癖だったという。
 好きこそものの上手なれというが、その諺どおり、水の好きな私は、いつの間にか泳げるようになり、小学校の3年生の夏にはクラスの誰にも負けないくらいであった。
 でも当時は、練習をするプールというものがなく、川の流れのゆるやかな場所で、川に杭を打ち、その上に足を乗せられるだけの板1枚を乗せて飛込み台にするのが、せめてものことだった。ターンは、杭に打ちつけられた3枚の板、コースのロープは農家からいただいた縄を引っ張るだけのものである。それでも泳ぐことの好きな私は毎日毎日、まっ黒になって川に通った。
「お前の顔はどちらについているの」とよく人から言われたものである。本当にまっ黒な上に、髪は陽に焼けて茶色がかり、パーマをかけたようにチリチリ毛。それも下に伸びればいいものを、上の方にクルクルと逆立ってしまう。どうみても土人の女の子としか見えない。そんな調子であった。
初めてプールという水たまりで水泳大会をやったのは小学校4年のときだった。大阪に浜寺海水浴場があったが、そこのプールであった。学童の100mと50mに出場して、2種目とも学童の最高記録で優勝した。小さな胸の中で明るい火が燃えあがる心地で、喜びで胸がつまったことの実感が今でも残っている。銀製のメダルを2個、ほうびに頂いたが、その1つは水泳を教えて下すった先生に差しあげたことが忘れられない。その後、5年生と6年生の夏、私はどこの試合に出かけても負けを知らない強い選手になっていた。時にはエキジビションとして男の生徒と競技をさせられたが、それも負けることがなかった。
結局、いつの間にか50m、100m、200mの3種目の日本記録保持者ということになっていた。父母はもちろんのこと、兄弟も町の人々も、そして学校の先生方も、みんなが喜んでくれた。「えらいぞ、えらいぞ、しっかりやるんだぞ」、そう言って励ましてくれた。
特に橋本小学校の校長、西中先生のお言葉は忘れられない。私を校長室に呼び、「実るほど首(あたま)の下がる稲穂かな」と一句で例えられ、「お前は現在の水泳界の人々、いや世の中の皆さんから注目されている。『水泳の天才少女現る』『水の神童』だとか言われているが、お前がここで自分は偉くなったと鼻高々になってはだめだ。偉くなれば偉くなるほど自分の立場と責任を考え、人様から崇拝されるような選手にならなければいけない。田んぼのお米をよく見てごらんなさい。穂に花を咲かせ、そして日一日と皆さん方の食膳に出てもいい頃には、穂の頭が下にたれるでしょう」と説かれ、奢ることなく勉強と水泳に一生懸命に励むよう諭されたのです。
私にとってもう一つ、終生の言葉となっているのは今は亡き母の言葉です。「やりかけたことは途中で決して止めてはなりません。最期までやり抜くんですよ」です。私はこの二つの言葉を玉条として、一層の練習に励んだ。そして苦しい練習には自ら進んで取り組むようにした。
人が5000泳げば、私は5500m泳いだ。そうしなければその日の練習に満足できなかったし、気分よくプールを上がることができなかった。負けず嫌いというのであろうか。私は暇さえあればプールに入って泳いだものだった。
だが苦しみの中にも、一つのレースに出場して自分の泳いだ記録が日本新と発表されたりすると、そして翌日の新聞紙上に自分の姿と共に、日本記録が大きく掲載されたりすると、今までの苦しみは一度に消えて、ただ喜びだけが全身を包み、感激して涙したことも幾度かあった。「お母さん、もっとやりますよ」と心の中でそう誓った。
忘れもしない18歳(昭和7年)の年に、第10回ロサンゼルスのオリンピックが開かれた。私は女子200mの平泳ぎに出場した。その決勝、オーストラリアのデニス嬢と接戦し、私は10分の1秒差で大魚を逸した。そして2位となったが、私の記録としては素晴らしいものであり、自己の日本記録を5秒も上廻るものであった。それだけに、2位としての銀メダルは金のように見えた。
私にとって意気揚々の帰国は凱旋さながらの胸ふくるる思いであった。しかし私を待っていたのは「どうして10分の1なんかで負けたのか」「もう少しで勝てたじゃないか」といった攻め言葉ばかりであり、それは予想外のことだった。私は返事に窮したほどだった。
でもそう言われるほどに、私の感情に別なものがわいてきた。「よし、次のベルリン大会でやってみせる」。母の言葉どおり、私は最後までやり抜く決意を新たにした。4年間を頑張り抜けばできることだと思ったのである。
それからというもの、冬は冬のトレーニング、夏はプールでの猛練習と、自分で自分を励ますことにむちうち、1日として休んだことがなかった。
当時の冬のトレーニングは、なわ跳び、バスケットボール、グラウンドでのかけ足などであったが、私はより以上に強い足、強い足首を作るために、毎日毎日暗くなるまで山の中を駆けずり廻った。今でいうサーキットであった。学校の裏門から1人で走り出て、山へ山へ、そして山へ、枯れ草をふみながら細い道を走りに走った。時には枯れ草で未知の凸凹がわからずに、つまづいては転んだ。時には打撲傷で足を傷め、捻挫も一度ならずであった。汗はびっしょりで、腰に下げたタオルも絞れば音の立つほどであった。こうして私の足は日一日と強くなり、八事の山、天白の山と名古屋の山で知らぬ処のないほど走り廻った。それはただ、ベルリン大会に勝つことへの努力で、鍛えに鍛えぬいたのだった。
待ちに待った昭和11年、ベルリン大会の年。その年の3月、私はプールに入る練習を開始した。水温は10度を保つのにやっとであった。この冷たい水に入ることが無理であることは百も承知だったが、私はもうじっとしていられなかった。手を入れただけでもビリビリ痛い感じであった。それでも私は水着になって入ってみた。痛い。針で刺されるように痛い。私はとにかく早くシーズンオフから泳ぎだしたかったのであった。そして人よりも早く練習がしたかったのでもあった。水泳クラブ員がお風呂をたいてプールに入るのが4月20日である。部員の人たちは寒い寒いと言いながら25mを泳いではお風呂に入るのだが、私はそんなことはなかった。冷たい水もなんのその、自分の泳ぎたいだけ思う存分泳いだ。そして5月、6月に入った頃の練習法となると朝5時に起床して1時間半程泳ぐのが1日の内で1番身の入った練習だった。
現在、インターバル練習が基本のように言われているが、私はそのインターバル練習を30年前にやっていたわけである。オリンピックに出場する種目は言うまでもなく200m平泳である。私は誰から言われたのでもなく、教えられたのでもなく、私自身の練習法として250mのインターバルをやっていた。
この練習は、飛込むと100mは水に慣れるために「ゆっくりと流す(泳ぐ)、そしてターンの5m手前から250mを全力で泳ぐ。次に休憩をしないで100mを泳ぎ、また250mをがんばるという練習法だった。なかなか苦しいが、この練習のおかげで、私の一番弱い100mから150mにいくこの50mを素晴らしく強くした。200mのレースのうちで一番苦しいこの50mを頑張り、ここで自己の記録を破ることを考えていた。
ベルリン大会で勝てたのも、この苦しいインターバルトレーニングと、山の中を走り廻ったおかげだと思う。
東京オリンピックでアベベのすばらしい活躍を目の当たりにしたが、彼の練習法もインターバルを活かした独特なものがある。アベベのそうした優れた練習法と、それをやりきるだけの精神力、それが最大の勝因と思う。(昭和42年発表原稿)

2021/07/05

∼ONE FOR ALL ALL FOR ONE∼

『ONE FOR ALL ALL FOR ONE』これって何?

痛みと動かしにくさのある部分だけをストレッチだ!筋力アップだ!って言ってもなかなか楽にならない。だって体は全部繋がっているから…・・というお話です。

オンラインサロンは毎月第3金曜日開催予定!

次回は7月16日金曜日午後7:30分から9:00まで参加無料・どなたでも参加可能。

参加方法は協会に参加希望のメールをしていただけるとzoomの送ります。